我々の頭上に鎖で吊り下げられているダイヤモンド形の電灯は、目の前のずっしりと重そうなドアにはめ込まれた黒い唐草模様を妖しく照らし出していた。ハルミはスカートのポケットから胴色に光る鍵を取り出すと、ドアの取っ手のすぐ下にある鍵穴に差し込み、手首を重たげに右側にひねって鍵を開けた。彼女が両手でその取っ手をゆっくり引っ張るようにしてドアを開けた時、蝶つがいがきしむ音と共に、糸杉の匂いのする微風が私の顔を撫でた。

「どうぞ。入ってください」

彼女は先に立って家の中に入ると、明かりを点け、靴を脱ぎながら言った。

 

私の足元には黒くざらつきのあるタイルが敷き詰められていた。その先からは、床板張りの真っ直ぐな廊下が始まり、家のずっと奥まで続いるように見えた。廊下の両側の壁には、いくつもの絵や写真が掛けられていて、それは天井に規則正しく並んだ電灯の光を静かに浴びていた。

私が後ろのドアを閉めると、玄関の隅に置かれた名前のわからない観葉植物の大きな葉が、かすかに揺れた。そっと手でその葉に触れると、その表面はなめらかだったが、芯は硬く、すぐに折れてしまいそうな感じがした。

「ドラセナっていうんです。その木。私が時々お水あげてるんです。この季節に外に出しておくと寒さで枯れちゃうし、誰も面倒見てくれる人いないから」

ハルミはかがみ込んで、自分の脱いだ小さな黒い皮靴をそろえながら、上目使いで私を見て言った。

「へえ、僕も木が好きだけれど、あまり観葉植物のことは知らないんだ。外国産のものが多いからね。でもこの家には君しか住んでいないのかい?」

「お母さんがいるんだけど、お父さんが亡くなった後、会社の後を引き継いだから忙しくてあまり帰ってこないんです。お手伝いさんも週末はお休みで家に帰ってるし」

「そうなんだ…」

私は少し冷や汗をかきながら、そう言うのが精一杯だった。今夜は彼女が一人きりだということを、自分の質問が意図的に訊き出したかのように響いて、なんだかぎごちない気持ちになったからだ。そんな私の姿を見て、彼女もまたうつむいて、もじもじとしながら何かを強く意識し始めているように見えた。

「あの、ドアの鍵掛けてもらえますか?もし知らない人が入ってきたら困るから…」

「あ、ああ」

彼女に言われて私は慌てて二つあったそのドアの鍵を両方とも掛けた。

 

出されたスリッパを履き、その狭い廊下を奥へと進んで、突き当りを右に曲がると、すぐ目の前には豪華なビングルームが広がっていた。部屋の中央には白い絨毯が敷かれ、その上に置かれたガラスのコーヒーテーブルを、黒い皮のソファが城壁のように囲んでいた。巨大な茶色いカーテンが前方の窓辺をすっかり覆っていて、外の景色を見ることはできなかった。私の左斜め向かい側に赤いレンガ作りの暖炉があり、その真上の壁に、一つの絵が飾られていた。それは黄色いローブをまとった男が、黒髪の女に後ろからぴったりと寄り添って口付けしている絵だった。単調な黄色い背景の中で、女の白い顔だけが異様なほど立体的に浮き出して見えた。

「こっちです」

官能的な絵に気を取られていた私が、はっとしてハルミの声のした方に振り向くと、彼女は驚き、恥ずかしそうに慌てて私から目をそらした。そして自分の後ろにある通路を指差して、そこを進んでいった。私は好奇心いっぱいに彼女の後を追った。

両側の壁にいくつものドアがあるその通路には、赤い絨毯が敷かれ、私は誰もいないホテルの中を歩いているような気分になった。ハルミはその通路の終わりにあるドアの前に立って私を待っていた。

「ここが地価倉庫の入り口なんです。階段が急だから気おつけて降りてください」

彼女はそう言いいながらそのドアを開けると、壁際にあるスイッチをいれ、中の明かりを点けた。我々は微かに湿った匂いのする長く急な階段を、慎重に下りていった。

 

「すぐに電気点けるから、待っててください」

ハルミがそう言うと同時に、いくつかの電灯が灯り始め、薄暗かった倉庫の中が突然明るくなった。私が目を瞬いて良く見ると、目の前にある大きな壁は、数え切れないほどのレコードジャケットでびっしりと埋め尽くされている棚だった。私はしばらく呆然とそこに並んでいるレコードを眺めた。棚の隣にあるずっしりとした木の机の上には、銀色のアンプとターンテーブルが重ねて置かれていて、その両側には黒く大きなスピーカーが立っていた。

後ろに広い空間の存在を感じて、私はふと振り返えった。少し離れたところにビリヤード台とバーカウンターがあり、その向こう側には、ウイスキーやワインのボトルが何本も並んでいる、ガラスケースで閉じられた棚があった。部屋のあちこちにいろんな大きさや形のソファが散らばっていて、壁際には埃をかぶった古いジュークボックスが一台置かれていた。心地よい風を感じてふと天井を見上げると、そこには小さな風車のように白いプロペラがゆっくりと回転していた。それは地価倉庫というよりは、バーそのものだった。私は言葉を失って、その場に立ち尽くした。

 

「まるでバーみたいだ」

私は部屋を見渡しながらつぶやいた。気がつくとハルミがすぐ隣に立って、何も言わずに私の顔を見上げていた。その目は少し潤んでいて、怯えているようにも見えた。我々はお互いの目をじっと見つめ合った。まばたき一つしない彼女の目を見ていると、その中に今にも吸い込まれそうな気がした。私の心臓に激しい鼓動がまた戻ってきた。緊張からか、口の中はからからに乾き、こめかみを両側からきつく圧されるような痛みが走り、喉の奥で熱い嗚咽が燃えているような感じがした。意識が薄れていくように頭の中が真っ白になり、なんだか下半身が重くもったりとしてきた。ハルミは手を伸ばし私の手をぎゅっと握り締めた。右手に細く瑞々しく柔らかい彼女の指がくい込んでくる感触がした。その指先から、私の中の何かが吸い取られていくような気がした。彼女は口をすぼめ、上目使いで何かを問いかけているような顔をして、静かに私を見つめていた。私は心の中でその愛らしい表情に必死で逆らおうとしていた。彼女はまだ中学生なんだ、と自分に言い聞かせ自分を抑えようとした。

私は深く息を吸い、目を閉じた。自分に迫られた一つの大きな決断を下すためには、過去に遡って様々な事実を検証する必要があった。

 

◎◎◎

 

ある日曜日の午後、私は庭でゴルフクラブを握り、目の前にある緑のネットに向かって力いっぱいゴルフボールを打ち込んでいた。ボールに神経を集中すると、ひざを曲げ、背中を丸めて、左ひじを真っ直ぐに伸ばしたまま、クラブを自分の頭の後ろまでゆっくりと持っていき、腰をひねって、最後にそこから思いきりクラブを振り下ろすようにしてボールを打った。

いつものように、何度やってもボールは少し右斜めのほうへ向かって飛んだ。でも当時の私には、その原因がどうしても分からなかった。私はそれに苛立ち、クラブをそのまま地面に叩きつけると、深くため息をついて、家の中に戻ろうとした。そして振り向くと、目の前の縁側には、私の十四歳になる娘と、その友達らしい少女が静かに座っていた。

二人はじっと私を見つめていた。その目はまるで大人気ない私の姿を非難するかのように冷ややかだった。私は自分がとても恥ずかしくなり、顔を熱く火照らせながらうつむいた。

「お父さん、怒ってるの?」

そう言った娘の声は、とても率直で、はっきりと響いた。

「い、いや。ただちょっとボールが思ったように飛ばなかったんだ…。怒ってる分けじゃないよ」

私はそう言いながら、何か体面を取り繕うことができる言い訳を考えた。でも、適当な言葉は思い浮かばなかった。顔を上げて二人の表情をうかがおうとした時、私の注意は娘の隣に座っていた少女に注がれた。彼女ははっとするほど美しく、なんとなく大人びて醒めた雰囲気を漂わせていた。

私は思わずじっと彼女を見つめた。その少女は私の目を見て一瞬驚いたような表情をした。そして少し顔を赤らめてわずかに視線を下げ、私と目が合うのを避けた。彼女はうつむき加減になり、とても綺麗な手でそっと自分のこめかみのあたりに触れ、そこを撫でた。彼女の大きな瞳は、びっしりと生えた濃く長いまつげに縁取られていて、黒く真っ直ぐな髪は、夜露に濡れたススキの葉のように潤って、さらりと伸び、彼女の肩の上にゆったりと落ちていた。

私は、自分の中から何か得体の知れない欲望が湧きあがってくるのを感じた。でも、そんな気持ちをどう扱うべきなのか分からなかった。私はただ、地面に落としたゴルフクラブをすばやく拾い上げると、娘とその少女の前を通り過ぎて家の中に入った。そして私は、その日一日を悶々とした気持ちの中で過ごした。

 

その夜、私が風呂から上がって寝室へ行くと、妻はもうベッドに入って、疲れきったように顔を枕にうずめていた。私が十五年以上も前に初めて抱いた女は、私が同じベッドに入って来るのを、もう昔のように起きて待ってはいなかったし、私もそれを期待していなかった。

「もう寝たのか?」

応えが返って来るとは思わなかったが、張り詰めた静けさと緊張を和らげるために、私はあえて彼女に訊いた。

「起きてるわ。これから寝ようと思ってたところ。まだお風呂にも入っていないんだけど…」

妻の声は少し気だるそうだったけれど、いつもより弱々しく聞こえた。その響きは、私の苛立った気持ちをなぜかほんの少しだけ落ち着かせた。

「疲れたのか?」

「うん、ちょっとだけ。肩がこってるの」

 

私はそのベッドの前に立つと、そっと掛け布団をめくり、白いシルクのパジャマを着てうつ伏せになっている彼女の上半身を見た。私は、体重を掛け過ぎないように妻の腰のあたりにまたがると、彼女の肩まである黒く真っ直ぐな髪を首の両側に分け、背後からその首の付け根の筋肉を、やさしく揉みほぐすようにしてマッサージした。

彼女の首筋は温かく、柔らかく、折れてしまいそうに細かった。しばらくして首から肩にかけての肉が十分ほぐれたように思えると、私は彼女の背骨の両側にそって、盛り上がるようにしてある筋肉を、ゆっくり上から下へと親指で指圧していった。

「はぁっ、あぁ…」

少し強めに力を入れると、彼女はぐったりとしていた身体を一瞬強張らせ、色っぽい吐息をついた。

そんな妻の声をしばらく聞いていると、淫らな思いが、私の腹の底から身体を鋭く突き破って出て来るのを感じた。私は今日の午後、娘と一緒に縁側に座っていた美しい少女のことを想い出した。今触れているこの体は、あの少女のものなのだと私は思いたかった。

 

気がつくと、私のペニスははちきれそうに勃起していて、パンツの中で硬直した亀頭がこすれ、それはヒリヒリするほど熱く感じられた。私は前かがみになり、欲望に任せて彼女の首筋に激しく何度も口付けすると、両手をそのシルクのパジャマの中にすべり込ませた。そして私の手は自然に妻の身体の下に潜り込み、彼女の乳房をしっかりとつかんだ。

「ね、ねえ。キスして。お願い」

彼女は少し息を荒くしながらそう言うと、首をひねって私の方を見た。彼女の髪は乱れ、その何本かは濡れた唇に絡み付いていた。私は彼女の少し開いた唇に、自分の唇を力強く重ねると、それを吸い、舌で舐め回した。我々は唇をもう少し開くと、お互いの舌を吸い、激しく絡み合わせた。私は右手を妻の乳房から離すと、彼女の下腹部へとすべらせ、下着の上から性器の割れ目を何度もこするようになぞった。彼女は下着の上からクリトリスを刺激されるのが、とても好きだったからだ。

「はっ、ああ、あっ…あっ」

妻は部屋の外に聞こえないように、小さな声で悶え、自分の胸を揉んでいる私の左手を両手でしっかりと握っていた。私は自分の硬直したペニスを、ズボンの上から彼女の柔らかな尻にきつく押し付けた。

「クリトリスだけで逝きたいのか?」

私は彼女の耳元にささやいた。彼女は目をつぶって深く頷いた。私は右手を妻の下着から離し、彼女の顎の所までもってくると、その人差し指と親指を彼女の口の中に入れ、少しの間しゃぶらせた。それからその唾液で濡れた指先をまた彼女の下半身へと移動させ、下着の中に手を入れた。そして、硬い陰毛に覆われた性器の割れ目をなぞりながら、その先端にあるクリトリスにたどり着くと、指先でそれをそっとつまんで転がした。硬く膨らんで弾力のある彼女のクリトリスは、唾液と愛液に絡まり、私の指先の間でつるつると逃げ回るように踊った。しばらくそんな風に彼女をもてあそんでいると、声を押し殺しながら体を硬直させていた彼女が、ふと力を抜いたようにぐったりとした。

「ありがと…」

そう言って彼女が私の下で寝返りを打つと、我々はしっかりと抱き合って、また唇を重ね合わせた。

 

◎◎◎

 

私はペニスを妻の膣の中に挿入しながら、またあの少女のことを想った。あの子もいつかこんな風に男と交わるのだろうか、そしてそれはどんな形でおとずれ、彼女はどんな風にそれに対応するのだろう、と。私はその少女の事を考えながら目をつぶり、妻をきつく抱きしめると、まるで削岩機が硬い岩を砕くように激しく、彼女を何度も突き上げた。

「ああっ!あっ、ああ、あっもうだめ!」

妻は身をよじらせながら声を張り上げた。彼女は、爪を私の肩に食い込ませて血が滲み出るほど強く握り締めると、私の身体を押しのけようとした。しかし私は更にきつく力を入れ、彼女のよがる身体を抑えつけるようにして抱き、荒々しく腰を動かし続け、彼女の中に一度目の射精をした。私のペニスはそれでも硬く張り裂けそうに勃起したままだった。そして私はそのまま彼女の中に二度、三度と射精して、膣の内部を精液でドロドロにした。

 

「今日のあなた、すごかったわ。何かあったの?」

その言葉を聞いて、射精して完全に性欲を失っていた私は気分が悪くなり、胃の底から吐き気のようなものがこみ上げて来るのを抑えた。

「いや、ただちょっとゴルフがうまくいかなかったんだ」

「ふーん」

彼女は私の身体に腕を回し、脚を絡めた。そしてしばらく私の萎えたペニスや睾丸をもてあそんだり、シャツの中に手を入れて乳首をつまんだりしていた。

「明日早いからもう寝るよ」

「ねえ、明日の夜もしよ。いいでしょ?」

彼女はにっこりと笑って言った。

私はうんざりした気分だったが、それを隠すため、いつものように屈託のない笑顔を作った。

「そうだね、明日もしよう」

 

正直に言えば、妻にはそれほど興味が持てなかった。

私が彼女と結婚した理由も、偶然同じ会社の中で知り合い、たまたまいっしょに寝る機会があって、運悪く妊娠させてしまった為だった。私の結婚生活にこれといって問題が見あたらなかったのは、私が幼い頃から自然に身につけてきた、人間社会で波風立てずに生きていくための処世術や社交事例を、家庭でもただ同じように実行していたからだ。

彼女が私のことをどう思っていたのかはよく分からない。あえてそれを訊くほどの好奇心も湧かなかった。ほとんどの場合、そんな無関心は無意識のうちに露呈して、男女の関係を壊すものだ。しかし私と妻に限って言えば、それは常に一定で、安定したものだった。我々は、少なくとも私には、自分たちの関係に特別な不満は何もなかった。あるいは耐えがたいほどの不満はなかったと言うべきかもしれない。

 

翌日の朝、私が起きて朝食を取りにキッチンに向かうと、妻がすでに食事の仕度をしていた。娘はもう家を出て学校に行った後のようだった。

「おはよう」

昨夜のことを思い出した私は、少しぎこちない感じの声で言った。

四角く小さなフライパンで卵を焼いていた妻は、私の方に振り向くと、目を細めて微笑んだ。

「おはよう、よく眠れた?」

「ああ、でもまだ眠たいよ」

私はそう言いながら椅子に座り、テーブルにひじをつくと、彼女が料理している姿を見た。彼女はいつもより力強く、テキパキと動いているような気がした。彼女は青い綿のパンツをはき、白い長袖のTシャツの腕をまくり上げて、エプロンまでつけていた。彼女が朝早くから着替えて、エプロンをつけて朝食を作っている姿を、私は数年前まで遡っても思い出せなかった。

明るく透明な朝日が差し込んでくる窓から外の庭を見ると、昨日私がゴルフクラブで掘り返した地面の土が、青々とした芝生の中に、ぽつりと黒く盛り上がっていた。私はまたあの少女のことを思い出した。彼女の白い肌や、大きな瞳や、赤い唇のことを想うと、それは頭の中でしだいに重さや、立体感や、潤いを持ち始め、まるで現実に彼女が目の前にいるような気がしてきた。そして私はとても苦しくて、やりきれない気持ちになった。どうしてこんな気持ちになるんだろう?昨日初めて、ほんの一瞬彼女を見ただけじゃないか。私はそう自分に言い聞かせた。

「どうかしたの?」

妻の声で私は我に返った。目の前を見ると、味噌汁と卵焼きといくつかの漬物が並べられていた。私は、妻が昨日の夜のことで気をよくしているのかもしれないと思うと、なんだか彼女に対してとても悪い気がした。そして、あらためて妻に対してやさしく接しなければいけない思い、彼女に言った。

「いや、なんだか良い一日になりそうだなと思ってさ…」

「そうね」

彼女はまた微笑んだ。

 

◎◎◎

 

私は家を出ると、いつものように地下鉄の駅に向かって歩き出した。十月も半ばに入り、朝の空気は少し肌寒く感じられるようになっていた。腕時計を見ると九時五分前を指していた。私は痩せたポプラの植えられた並木道を早足で進み、赤信号で何度か立ち止まり、横断歩道を渡ると、人でごった返した駅の入り口をくぐった。人込みの流れに押されるようにして、冷たいコンクリートの臭いがする階段を降り、改札口の機械に定期券を通すと、薄暗く、黄ばんだ電灯の光に照らされた駅のホームに出た。そこにはすでに多くのサラリーマンや、遅刻した学生たちが並んで電車を待っていた。私はため息をついた。そして列にも並ばず、近くにあった円柱形の柱に寄りかかって電車が来るのを待った。

 

私にはこんなふうに生真面目に通勤している自分が滑稽に思えた。会社でやることといったら、書類の保存整理や、それを基にただひたすらコンピューターにデーターを入力したり、電算表を作ったりするだけだ。たったそれだけの為に、本当に毎朝こんな大袈裟にスーツを着て、群集に混じり、律儀に同じ時間の電車に乗る必要があるのだろうか。

電車がホームに到着し、ドアが開き、大勢の乗客が車両に乗り込んで溢れんばかりになった。私はその後から、肩で強引に人をかき分け、ドアが閉まる前に必死で自分の体を小さな隙間に押し込もうとした。毎朝やっていることなのに、今日はそんな自分がなぜか嫌になった。その時、ふと私は後ろに誰かの視線を感じて振り返った。

 

そこには、昨日の少女が立っていた。彼女は私の娘と同じ学校の制服を着て、紺色のショルダーバックを肩に掛けていた。私の視線は彼女に釘付けになった。そして彼女も私を見た。我々はそのまま長い間じっと見つめ合った。彼女の瞳は私に何かを語りかけているように思えた。

私は後ろに立っていた誰かを背中で思いきり押して、自分の前に人一人が辛うじて入れそうな空間を作った。その少女は呆然と私を見ながら、電車に乗ろうかどうか迷っているようだった。私は彼女のためにその空間を守ろうと、更に力を入れ、後ろの人込みを抑えつけた。

突然、耳鳴りがして、周囲のざわめきが全く聞こえなくなった。自分の身体の中で心臓がゆっくりと、でも力強く鼓動しているのがはっきりと感じられた。私は深く息を吸い、それを吐いた。とても長い時間が過ぎたような気がした。私はしだいに自分のやっていることが、全くの見当違いではないかと思い始めた。でも彼女はそっと車両に乗り込んで来た。私と彼女は、お互いの身体が完全に密着してしまいそうなほど近くに立って、向かい合った。すると、彼女のすぐ後ろで電車のドアがゆっくりと閉じた。

 

電車が動き出すと私はもう後ろの群集を抑え続けてはいられなくなった。そしてしだいにその少女の方へと押し戻された。彼女は後ろのドアに背中をつけて寄り掛り、私はそのドアに手をついて自分の身体を支え、できるだけ彼女に触れないように努めた。でも電車がカーブにさしかかると、私は後ろから強く押され、そのまま彼女に覆いかぶさるようにして身体を重ねた。

私は彼女の髪の甘く爽やかな匂いを嗅ぎ、それを吸いこんだ。恥ずかしそうにうつむいていたその少女は、ゆっくりと私を見上げた。その大きな瞳は、少し潤んでいて、黒く何処までも深い井戸の底のように思えた。彼女の濡れて赤々とした唇は少し開いていて、その間から白く綺麗な前歯が覗いていた。我々はそのまま見つめ合い、身体を触れ合わせ、お互いに熱い息を交わし合った。

 

彼女の甘い息は、私をとろけそうにした。しばらくすると彼女の手が私の胸に触れ、そこをそっと撫で始めた。私はドキリとした。よく見ると私のジャケットのボタンは何時の間にか三つとも外されていた。彼女はゆっくりとその手を私の腰に回すと、私の胸にぴたりと頬を寄り添わせた。

心臓が張り裂けそうなほど激しく高鳴り、私は息苦しくなった。ペニスはもうずっと前から勃起していたが、気が動転していて、それにさえ気がつかなかった。自分の胸の中で幼い子供のように頬擦りをしているその少女を目の前にして、私はただ身体を硬直させて立ち尽くしていた。私には、その仕草から彼女の求めているものがなんとなく分かるような気がした。もちろん彼女は自分の身体を触られたり、性的に弄ばれたりしたがってはいなかった。彼女は父親のようなものを必要としているのかもしれない、私はそう思い始めた。すると私にはもう周りの人間の目など全く気にならなくなった。そして私はその満員電車の中で、少女を胸の中にいつまでも、しっかりと抱きしめた。

 

電車が止まると彼女の後ろのドアが開いた。私と彼女は降りる人の流れに押されて駅のホームに放り出された。ホームに並んでいた人々が車両に乗り終えると、ドアが閉まり、電車は動き出した。階段の方に向かって歩き出す人込の中で、我々二人は手を握り合って立っていた。少女は名残惜しそうな顔をして、私の手を放すと、初めて口を開いた。

「あたし、もう行かなきゃ」

私はただ言葉を失って、何も言うことができなかった。彼女は目を細めてやさしく微笑んだ。でも彼女の濃く長いまつげは、少し悲しそうに上向いていた。

「でも、また会えるよね」

彼女はゆっくりと後ずさりしながら、上目使いの表情をして言った。

「うん、また会える」

私はゆっくり頷いて言った。そして思い出したように微笑み返した。

彼女は私の笑顔を確認してにっこり笑うと、振り返り、バックを手で抑えながら階段の方に駆けて行った。薄暗い地下鉄の駅の階段を駆け上がっていく彼女の姿は、壊れてしまいそうに華奢で、切なくなるほど美しかった。私はその姿が見えなくなるまでじっとそこに立っていた。そして駅のホームで一人きりになると、どうしようもない孤独感に襲われた。もう二度と彼女に合えないとしたら、きっと頭がおかしくなってしまうだろうな、と私は思った。

 

◎◎◎

 

駅を出ると、私は自分が何処へ行こうとしていたのか分からなくなっていた。そしてそのまま大都市の街並の中を行くあてもなくさまよった。時計を見ると、すでに会社に着いて、仕事を始めなければならない時刻を過ぎていた。それでも私は気分を静めるために、目にとまった喫茶店に入って休むことにした。

その店はガラス張りで、外から店内全体の様子を見渡すことができた。店の中は比較的すいていて、観葉植物や水彩画がいくつか飾られ、艶のある硬そうな木製の椅子とテーブルが、整然と並べられていた。よく見ると、中には見覚えのある少女が座っていて、飲み物を片手に雑誌を読んでいた。しばらくして、彼女が自分の娘であることに気がついた。

 

「学校には行かないのか?」

私は店のカウンターでコーヒーを買うと、そのカップを持って彼女のいる席まで行き、声を掛けた。

「…お父さん!」

娘は驚き、目を丸くしながら私を見上げた。彼女はとっさに読んでいた雑誌を閉じて、隣にあった白いトウトバッグの下に隠すように置くと、うつむいて気まずそうにもじもじしとた。そしてしばらく彼女はふて腐れたように黙って何も言わなかった。私は彼女の向かい側に腰掛けると、コーヒーを一口飲み、窓の外を見た。日はもうだいぶ昇っているはずなのに、いくつもの高いビルに遮られて光が届かず、何もかもが灰色に見えた。そんな街の中を、スーツや制服に身を包んだ人々が忙しそうに行き交っていた。

 

私は娘の教育に関してこれといった方針や興味を持ってはいなかった。今までは社交事例として、それを持っているかのような振りをしてきただけだった。人にはやる気の有無に関わらず、何かしら演じなければならない役目があると思っていたからだ。しかし今は、会社にも行かず、こんな所で油を売っている父親が、娘に対して何を言っても無駄だと分かっていたし、言うつもりもなかった。

 

「学校、嫌いなのか?」

しばらく続いた沈黙の後、私は彼女を見て言った。

「嫌いじゃないけど、退屈」

彼女は私と目も合わせず、ほとんど空になったコップの縁を親指でなぞりながらそう応えた。

「でも学校に行けば友達に会えるだろ」

「うん、でも今日はいちばん仲良しな子が来なかったから。いっしょに学校行こって待ち合わせまでしたのに…携帯もつながらなかった」

私はあの少女のことを想った。多分彼女が娘のいちばん仲の良い友達なのだろう。でも彼女はなぜ娘との約束を破ったのだろう?私に合うためだろうか。そう考えると、私の胸は高鳴った。そしてそんな自分に罪悪感を感じ、娘を慰めるための言葉を探した。

「そうか。その子にもきっと、来れない事情があったんだと思うよ。そいう事ってよくあるんだ。お父さんも昔、ある人に手紙を書いていたんだけどね。返事が急に来なくなった。何度手紙を送っても返事がないから、その人のところへ会いに行った。でもその人はそこにはいなかった。そこのアパートの管理人に訊いても分からなかった。それ以来、その人が何処で何をしているのかずっと分からないままなんだ」

彼女は不思議そうに私を見ていた。私の話は少し大袈裟過ぎたのかもしれない。その上それは慰めにもなっていなかった。でも彼女は少しそれに興味を持ったようだった。そしてニヤニヤと笑いながら言った。

「それって、女の人?」

「そうだよ」

私が真剣な顔つきでそう言ったので、彼女はそれ以上何も訊かなかった。

 

「わかった。あたしもう学校行くよ」

彼女はそう言って立ち上がると、隣に置いてあったバッグを拾い上げて腕に抱えた。

「でも、お父さんこんな所で何してたの?」

彼女にそう訊かれると、私は一瞬言葉に詰まった。

「ああ、今日はちょっと外回りの仕事があったんだ」

私は慌てて適当な返事をしたが、その意味も分かっていなかった。それから立ちあがって、自分も会社に向かうことにした。娘はバッグのポケットから小さな携帯電話を取り出し、電話を掛け始めていた。私が疑問に思い、それをじっと見つめていると、彼女は言った。

「ハルミちゃんに電話してるの、さっき言った友達。ハルミちゃんていうの」

電話が繋がると、彼女は何やら話し始めた。でも私はその時すでに店の外に出るところだった。

 

その日以来、私はそのハルミという名前を何度も心の中で反芻するようになった。会社に行き、山積みになった顧客データに目を通し、それをコンピューターに打ち込んでいる時、自分の脳細胞の一つ一つに彼女の名前を刻み込んでいるような気がした。私は彼女の髪の匂いや、甘く温かい息のことを思い浮かべた。それから壊れてしまいそうに繊細で悲しそうな彼女の目の表情や、唇の動きが蘇ってきた。目をつぶると、ハルミは私の手を握っていた。目を開けると、彼女の指先はふっと私の手から離れていった。私は電車に乗るたびに、ハルミの姿を辺りに捜し求めるようになった。でも彼女を見つけることはできなかった。そして不安でいてもたってもいられなくなり、彼女が自分の前に現れなくなった理由を、頭の中で何百通りもの仮説を組み立てることで推測しようとした。理性では不毛で無意味な行為だと分かっていても、私にはそれを止めることができなかった。

私は自分が家庭も仕事も捨てて、彼女と一緒に何処かへ行ってしまうことを空想した。でも今まで人を愛したことのない私には、それができるという自信が持てなかった。それに例えそうしたとしても、現実にはその後行くあても、生きていく術もかった。そして何よりも、私は他人の気持ちを本当の意味で理解することができる人間ではなかったのだ。

 

◎◎◎

 

次の週の木曜日に、娘がひどい熱を出して寝込んだ。私はなぜかそのことに対して責任を感じた。彼女は父親に愛されていないことを本能的に感じ取り、深く傷ついたのかもしれないと思ったからだ。それをきっかけに、私はハルミのことをいつまでも想い続けるのは止めようと決心した。そしてその日の朝、私は会社のオフィスに電話をかけ、事情を説明し、仕事を欠勤する旨を伝えると、娘を病院に連れて行くことにした。

 

「ねえ、病院へは私が連れて行くから、何もあなたが会社を休まなくてもいいのよ」

食器を洗っていた妻は、少し驚いて振り向き、私をなだめるようにそう言った。

「いや、そういう問題じゃないんだ」

私はゆっくりと流し台の前に立つ彼女の所まで行くと、真剣に彼女の目を見て続けた。

「今はあの子と一緒にいてやりたいんだ。仕事に行くことなんて、いつだってできるんだから。少しは父親らしくしてもいいはずだろ?」

妻は黙って私を見ていた。その眼差しには何か熱いものが込められているような気がした。私はそれが何なのか見極めるために、じっとその黒い瞳孔を覗き込み、まつげの動きを観察した。もし他の誰かが我々の姿を見たら、それは愛し合い、見つめ合う恋人同士のように見えたかもしれない。私がそまま黙って妻と向かい合っていると、彼女は顔を赤らめ、慌てて私から目をそらし、恥ずかしそうに何度かぎこちないまばたきをした。

「あ、あなた。最近少し変よ。何かあったの?」

彼女は不器用に皿を水切り台の上に並べながらそう言った。それからタオルを手に取り、それを丸めるようにして手を拭くと、顔を紅潮させたまま何かを待っているようだった。私は妻の肩にそっと手を置いて、自分の方に引き寄せた。彼女は私の腰に手を回し、背中を力強く撫でまわした。それから我々は見つめ合い、お互いの顔をゆっくりと近つけ合うと、目をつぶり、唇を重ね合わせた。

 

まるで傷ついた小動物を扱うように、娘を白いトヨタカローラの後部座席に寝かせ、彼女の体の上に毛布をかけると、私は運転席に座って車のキーをひねり、エンジンをかけた。少しも寒いとは感じなかったが、私は彼女のために暖房をつけ、そのダイアルを最強に合わせた。しばらくして埃臭い空気が流れ始めたが、それはすぐに消えていった。バックミラーで後ろを確認すると、彼女がまばたきもせず、赤く潤んだ目で前のシートをぼんやりと見つめているのが目に入った。私は声をかけようかどうか迷った。しかし結局何も言わず、そのまま車を発進させた。

車を家のガレージから前の道にゆっくり出し、右に曲がって、しばらくそのまま真っ直ぐ走ると、渋滞した大通りに合流した。私はなるべく彼女に負担をかけないようにと思い、そっとつま先で撫でるようにアクセルを踏み、ブレーキをかけた。目的の市民病院に着き、そこの駐車場を何周も回り、やっと一つ空きスペースを見つけると、運転の下手な私は数分かかってそこに車を止めた。ドアを開けて外に出ると、冷たく雲一つない秋の空を背景に、その病院の白い看板が高く鮮やかに立っているのが見えた。

 

病院の中に入ると、待合室は想像した以上に混雑していた。親子連れや老人の患者が多く、何人かの看護婦が忙しそうに廊下を行ったり来たりしていた。時折、子供の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。それは病院特有の消毒液の臭いに紛れて、濃い乳製品の匂いに似た、幼い子供の体臭が室内に漂っていることを気付かせた。

私は保険証と診察券を、受付の窓口にある小さな白い箱の中に滑り込ませると、娘が座っている壁際の青い長椅子に戻って、その隣に腰を下ろした。彼女はまるで待っていたかのように、私の肩に頭をもたせ掛けてきた。私は腕を後ろに回し、茶色い皮ジャケットの上から彼女の肩をしっかりと抱いた。それから彼女の小さな頭をやさしく撫で、額に手のひらをあてて熱を測ってみた。彼女の額はとても熱く火照っていて、冷えた私の手を溶かすように温めた。この子は私のことを誰よりも切実に必要としているのだと、その熱はまるで私に語りかけているような気がした。

娘はジャケットの下に厚手の黒いセーターを着ていたにも関わらず、私にしがみ付いて身体を小刻みに震わせていた。その震えは彼女の身体をバラバラに壊してしまうんじゃないかと、私を心配な気持ちにさせた。

 

「寒いのか?」

私は思わず訊いた。

「少し」

彼女の脚を見ると、それはぐらぐらと落ち着きなく揺れていた。私は手で彼女の腕をさすり、もう片方の手で、きめの荒いコットンパンツの上から彼女の太ももを交互にさすったり、膝の間接の筋肉を揉みほぐしたりして暖めようとした。

「もういいよ…」

そう言った娘の声は少しうんざりしているようにも聞こえたが、身体はまだ私にしがみ付いたままだった。手を彼女の膝から離すと、自分が娘に何もしてやれないことが、どうしようもなく歯がゆく思えた。そしてその時、私は親としての責任を果たしていないような気持ちになり、自分自身を激しく責めた。私は苦し紛れに自分に何ができるのかを考えてみた。そしてたった一つだけ思いつき、それを口に出してみた。

「何か温かい飲み物を買ってこようか?」

彼女は黙ったまま、虚ろな目をしてまばたき一つしなかった。それからようやく微かに首をふって言った。

「ううん。いらない」

 

我々はその後、抱き合ったまま一言も言葉を交わさなかった。その静寂の中で、私は今までの自分の生き方について考えてみた。私はハルミに恋していたのだということを思い出した。これまで私が陥った恋は、どれもこれも突発的で、一方的で、一時的なものだった。それは本当に気まぐれで、別の恋が始まれば、一瞬にして消えてしまうような情熱しか伴わなかった。それは恋でさえなかったのかもしれない。

それから妻のことを思った。妻は私をどう思っているのだろうと、始めて真剣に考え始めた。そんな風にして一時間ほどが過ぎたのだろうか。気がつくと娘の名前が呼ばれていた。それは遠くの方から何度も響いて、突然意識の中に飛び込んできた。私は夢から覚めるようにして我に返ると、娘の腕をしっかりと掴み、ぐったりした身体を抱きかかえるようにして立ちあがらせた。彼女には実体があり、質感があり、とても重い何かがあった。私はそんな彼女の身体を支えながら、ゆっくりと診察室の入り口をくぐった。

 

◎◎◎

 

午後二時を過ぎてようやく全ての検査が終わり、私と娘は疲れ果てていた。受付に医師から渡された資料を提出して代金を支払った後、我々は検査結果を聞き、処方箋をもらうために、また一時間ほど待たされることになった。私はそろそろうんざりし始めていたが、できるだけそれを娘に見せまいと努力した。

「大丈夫か?疲れただろ」

私が彼女の隣に座って訊くと、彼女は何も言わずにただ頷いた。我々の間に会話はなく、沈黙が立ちこめていたが、今ではそれは何か親密で温かい静けさへと変わっていた。娘はゆっくり身体を曲げ、私の膝の上に自分の頭を寝かせた。私は彼女のなめらかな髪をやさしく撫でた。

 

「ねえ、お父さん、どうして今日はそんなにやさしいの?」

彼女は両手で私の膝を抱えながら、子犬のように弱々しい声でそう訊いた。

私は彼女の肩にそっと手を置き、そこをさすりながら、その質問に対してどんな答えを返すべきなのか考えた。いつものように常識的で、適当で、当たり障りのない言葉が頭の中に思い浮かんだ。でも私はそれを言いたくはなかった。かと言って、ハルミへの思いを紛らわすためだとも言えるはずがなかった。

 

突然、熱い何かがズボンを通して膝の上に染み込んでくるのを感じた。私はふと、自分の膝の上に寝ていた娘の顔を見下ろした。娘は泣いていた。彼女は温かく小さな手で、私のズボンをきつく握り締め、歯をくいしばるようにして声を押し殺し、震えていた。彼女の目からは涙が止めどなく溢れ続け、細い鼻筋を伝い、その先から何滴もの大きな雫が私の膝へと落ちた。

私は驚きで言葉を失い、じっとそのままの姿勢で動かずにいた。なぜ彼女が泣いているのか、はっきりとはわからなかった。でも私はそれを見て、自分の無責任で無関心な生き方を、彼女に責められているような気がした。私は混乱し、どうして良いのか分からなくなって、大きな窓の外に見える背の高いイチョウの木を眺めた。枝に残った数少ないイチョウの葉は、柔らかな午後の光に照らされ黄色く輝いていた。扇形の葉が、かすかな風に吹かれて小さな灯火のように揺らめいた。そしてそこから一枚の葉が、緩やかな螺旋を描きながらひらひらと落ちていった。それは一つの小さな生命のように思えた。私はそれを自分の手の中に受け止め、しっかりと守ってやりたかった。

 

金曜日の夕方、私は仕事を終えると、残業もせず、同僚の誘いも断り、真っ直ぐ家に帰ることにした。娘の事が気がかりで、それ以外何も考えられかったからだ。病院の検査の結果によると、彼女は肺炎にかかり始めているとのことだった。それを聞いて私は始めて自分の家族というものを意識し、それを失いたくないと思い始めていた。

電車を下りると、私は急いで駅の階段を駆け上がって外に出てた。日は完全に沈んでいて、空気は吐く息が白く見えるほど冷え込んでいた。ネオンサインや街灯や店の明かりが、夜の暗闇をいろいろな色や形や大きさに切り裂いていたが、その輪郭はどれも白ばんだ藍色にぼやけていた。目を凝らして良く見ると、空にはいくつかの星が針の先のように鋭く輝いていた。私はそんな夜空を見上げながら、家に向かって足早に歩いた。家に着くと、私は息を切らせ、自分の足元がもどかしく感じるほど慌てて靴を脱ぎ、階段を急いで這い上がるようにして登った。そして二階の娘の部屋の前にたどり着くと、ノックもせずにそのドアを開けた。

 

制服姿のハルミが、ベッドの上に起きて座っていた娘の向かい側に、椅子を置いて腰掛けていた。

彼女は突然ドアを開けた私の方を振り向いて見上げた。そして私も彼女を見た。彼女と目が合うと、自分の心臓が停止して、身体中の血液が一気に逆流していくような感じがした。

ハルミはフランス人形のように白い肌をして、頬をピンク色に染めていた。かすかに開いた彼女の赤い唇の形は、くっきりと顔の中で浮かび上がっていて、手を伸ばしてその潤いや質感を確かめずには居られないような気持ちにさせた。そして何よりも彼女の大きな瞳は、私が今までに見たどんなものよりも深く、神秘的な色彩を放っていた。彼女が私を見てからその目を伏せるまでの数秒間は、まるで永遠のように思えた。彼女のまぶたが濃いまつげの重さに耐えられず、ゆっくりと何十年もの歳月をかけて閉じていくような錯覚を私に見せた。私はめまいがして、気が遠くなっていくのを感じた。

娘が不満そうな顔をして何かを訴えているようだった。でもその声が私の耳に届くまでには、とても長い時間がかかった。

 

その晩、我々家族の食卓にはハルミが加わった。彼女は際立って美しく、その中で異様にさえ映った。目の前では、娘がまるで私と妻のことなど視界に入っていないかのように、ハルミと楽しそうに会話していた。私はハルミを何度も横目で見ながら、彼女はいったい何を考えているのだろうと、心の中で思い巡らした。それから私は、自分の動揺を妻に悟られまいと、娘の身体の具合を詳しく尋ねたり、仕事の愚痴をこぼしたり、彼女の作った料理の味を誉めたりした。そんな風にして自分を演じながら、さっきまで感じていた家族に対する愛情は何だったのだろうと考えると、私は罪悪感を感じ、自分に対する激しい嫌悪感に襲われた。

しかし、ハルミを目の前にすると、私は自分が飢えている事をはっきりと感じさせられた。それは彼女に対する焼け付くような飢餓感だった。私は今まで自分が飢えている人間だとは思わなかった。むしろ満たされていて、特別な不満は何もない人間だと思っていた。しかし私は四十歳を目前にして、始めて自分が人生に対して何かを激しく求めている人間だと思い知らされのだ。

 

しばらくすると、娘が激しく咳き込みだした。

「さあ、もう薬を飲んで寝たほうがいいわ。ハルミちゃんに風邪がうつるといけないし」

妻は眉をしかめ、心配そうな顔をして言うと、手を伸ばして娘の背中をそっとさすった。ハルミはそんな妻の動作を目で追っていた。そして少し寂しげな顔をして言った。

「ごめんなさい、あたしもう帰ったほうがいいですね」

「あっ、気にしなくていいのよ。せっかくお見舞えに来てくれたんだから」

妻が気を使ってそう言うと、娘も自分の咳が止まるのを待って、言った。

「ごめんね、月曜日までには絶対風邪治して学校行くから」

「ううん、風邪治るまでゆっくり休んで。今日は色々ありがと。じゃあ、あたしもう行くね」

ハルミが椅子から立ち上がろうとすると、妻がすぐに私のほうを見て言った。

「あなた、ハルミちゃんを車で家まで送っていってあげて」

私は、はっとすると同時に、自分の中に何か恐ろしいものを感じた。こうなることを心の何処かで期待していたからだ。ハルミはこちらを見て、私が何か言うのを静かに待っていた。その深い眼差しに捕らえられると、私が言うべきことには、もう選択の余地など残されていないように思えた。

「そうだな。じゃあ、今から送るよ」

私がそう言ってハルミを見ると、彼女は恥ずかしそうにうつむき、小さな声で言った。

「あ、ありがとうございます」

 

◎◎◎

 

ハルミが私の妻と娘に別れを告げている間、私はどんな態度で彼女に接したら良いのだろうかと戸惑っていた。正直に言えば、これから私と彼女の間に何かが起こるかもしれないと、不純な期待をしていたのも確かだった。娘と話す彼女の横顔を見ると、つんとした鼻先が印象的で、それは私の中に眠っている欲望を鋭く刺すように挑発した。私は頭を振ってその思いをかき消そうとした。彼女は元気良くバイバイと娘に言うと、私の横に並んでガレージまで歩き、カローラのドアを遠慮がちにそっと開けて助手席に乗り込んだ。

 

車の中でハルミと二人きりになってしまうと、我々はお互いとの距離を測り合うようにぎごちない会話をした。二週間前に、彼女を満員電車の中で抱きしめたことを口に出さないでいればいるほど、それは意識の中でどんどん大きく膨らんでいった。私の心臓は鼓動する音が聞こえてしまいそうなほど速く、強く脈打ち、口の中は乾いて重く粘りつくような感じがした。

彼女の家はここから地下鉄の駅をはさんでちょうど反対側辺りにあるということだった。私はわずかな街灯の光に照らされた暗く狭い路地を走り、いくつかの曲がり角を曲がった。それから、夜も遅くなり交通量のだいぶ減った大通りに出ると、アクセルをいつもより少しだけ強く踏んだ。

 

お互い話すことがなくなり、二人の間に沈黙が訪れると、私はラジオをつけてチャンネルを回した。スピーカーからは、街中に溢れている、耳障りで冗談としか思えないような流行の音楽が流れ始めた。ハルミを隣にしてそれを聞いていると、自分がとても年老いた人間に思えて、なんだか落ち着かない気分になった。私はチャンネルを変えた。今度は静かにカーペンターズの悲しげな歌声が聞こえてきた。私はその曲が好きだった。でもそれはなんだかとても古い曲で、私を気恥ずかしくさせた。私は諦めてラジオを消そうと手を伸ばした。その時、ハルミが言った。

「あたし、この歌手好きなんです。音楽の先生が授業の時にかけたんだけど、何だったかな…」

ほんの少しだけ首を傾けて隣を見ると、彼女の横顔が、隣の車線から追い越して行った車のヘッドライトの光に白く照らし出され、そしてまた闇に包まれた。

「カーペンターズだよ。僕もこの曲が好きなんだ。もうずっと昔の曲なんだけどね」

彼女は私の方を向いた。彼女の目は光沢のある黒い石の様に微かな光を反射していた。その目がどんな表情をしているのかまでは分からなかった。私は何も言わずにまた前を見て運転を続けた。

「この歌手の人、何て歌ってるんですか?」

彼女にそう尋ねられて、私はしばらくその歌を聴きながら考えた。

「そうだなあ。私を愛してくれる人なんて、誰もいないかもしれないけれど、それでも頑張って生きていくわ。っていうことかな」

「…そうなんだ」

彼女はしみじみとつぶやき、それから突然思い出したように言った。

「あたしの家の地下倉庫に、お父さんが持ってた古いレコードがいっぱいしまってあるんです。カーペンターズもあるかもしれない」

それを聞くと、私は彼女の家の倉庫に眠っているであろう膨大な数のレコードのことを色々と想像した。そのレコードはいったい何枚くらいあって、何年くらい前のもので、どんなコレクションが置いてあるのだろうかと。それからふと、ハルミの父親は、どうしてそれを地下倉庫なんかにしまっているのだろうと思った。

「じゃあ、お父さんはもうレコードを聞かなくなっちゃったのかい?」

私は気になって彼女に尋ねた。

「あ、あの、お父さん二年前に死んじゃったから…」

ハルミはそう言った後、ずっと窓の外を眺めながら物思いにふけっているようだった。私はなんとかして彼女を慰めてやりたいと思った。でも私には何もできなかった。自分の思いの中に沈んでいる彼女は、私から離れ、ずっと遠い所に行きたがっているように見えたからだ。車のフロントガラス越しに、いくつもの流れていく光の筋が見えた。我々もまた何処かに向かって流れていくその光の中の一つだった。私はもう少しスピードを上げてその大通りを走ることにした。何故かは分からないが、そうすることが彼女への慰めになるような気がしたからだ。

 

「あれ、あたしの家です」

信号で大通りを右折して、ハルミの言うとおりに細い道を下っていくと、彼女は大きな邸宅を指差して言った。その家は高い塀に囲まれていて、入り口には鉄格子の門があり、黒くどがった屋根と、庭に植えられた大きな松の木は、静かな夜空を刺すようにそびえ立っていた。塀の内側からは明かり一つ漏れてくる様子はなく、人が住んでいる気配さえ感じなかった。私は彼女に言われるままその邸宅の裏側に回り、そこにあった来客用の駐車場に車を止めた。近くに立っている街灯の白い光が、車のフロントガラスを貫き、それがダッシュボードに反射して車内を幻想的なモノトーンに染めた。彼女はシートベルトをして助手席に座ったままうつむき、車から降りるのを少しためらっているように見えた。それから何かを決心したかのように私の目を見つめ、微かに声を震わせながら言った。

「あ、あの。もしよかったら、わたしのお父さんのレコードコレクション見ていきませんか?いっぱいあるからきっと気に入るのあると思うし。もう誰も聞かないから持っていってもらってもいいし…」

彼女は少し怯えているようにも見えたが、目はとても真剣な表情をしていた。私は息を呑んだ。そして、その真剣さが意味しているものを確かめるために、その潤んだ目の中を長い間じっと覗き込んだ。彼女は一瞬たりとも私から目をそらさなかった。

 

◎◎◎

 

腰の両側に熱く鋭い何かが突き刺ささったのに気付いたのは、ハルミが私の胸の中に倒れ掛かるようにして身体を寄り添わせたすぐ後だった。私には何が起こっているのか全く分からなかった。目を開けると、彼女がやさしく目を細め、うっとりとした表情で私を見上げていた。腰の後ろから温かい何かが滲み出して、私のワイシャツを濡らし、それが肌の上にべったりと張りつく感じがした。指先の力が抜け、肺からこみ上げてくる吐息は震え、寒くもないのに、まるで身体が凍えているみたいだった。私は言葉一つ発することができないまま、膝を曲げ、ハルミの肩にしがみ付くようにして倒れ掛かった。彼女の肩は思ったよりもずっと幅と厚みがあり、まるで成熟した大人のそれだった。私は彼女を見上げると、たすけてくれ、と目で叫び続けた。

 

ハルミの両手がそっと私の頬に触れた。それは温かく濡れていた。その手は私の顔の上をしばらく這い回ると、下の方へ滑って行き、首の周りを包むと、親指で私の喉仏をやさしく撫でまわした。そしてその手はゆっくりと私のシャツの襟元から胸の中に忍び込んできた。シャツの一番上のボタンが、焚き火の中でぱちぱちと折れる小枝のように弾けてとれた。彼女は生暖かく濡れ、ぬめりのある小さな手で私の胸の筋肉を揉みほぐし、乳首を指先でつまみ、弄んだ。私は彼女のされるがままになり、ただ呆然と美しい彼女の鼻先に見とれた。何故か分からないが、自分の腰の後ろに刺さっているものはその鼻先なのだと思った。私にはそれがとても嬉しかった。身体中をその鼻先に刺し貫かれたいとさえ思った。彼女はゆっくり前かがみになって私に顔を近つけると、目をつぶり、そっと私に口付けした。音は何も聞こえなかったが、彼女の唇の動きを感じた。それは、おとうさん、と言っていた。私は恍惚とした感覚の中で目を閉じた。いや、正確に言うと私の目は見えなくなったのだ。

 

しばらくの間、彼女の濡れた舌が私の唇の上を力強く這いまわっている感じがした。しかし私の唇はしだいに冷たく固く麻痺していき、最後には何も感じなくなった。それから妻の身体をマッサージした夜のことや、娘が病院の待合室で流した涙のことが、目まぐるしい速度で溢れるように思い出された。その時、自分が死んでいくのだと分かった。しかし自分が誰によって殺され、なぜ殺されなければならないのかは分からなかった。そこにはハルミが関係しているはずだった。ハルミに私を殺す動機があるとは思えなかった。私と彼女の間にはほんの少しだけ心の触れ合いがあったはずだ。それは我々を生かすためのものだったはずなのに…。まあいい。人は死ぬべき時、死ななければならないんだ。それがどんなに馬鹿げた理由だとしても。

私はハルミを抱きたかったのだと言うことを思い出した。でも私はそれを達成できずに一生を終えようとしている。私にとってそれがどうでもよいことになり始めている。彼女に対する欲望を失っていくのは、なんだか悲しい気持ちがした。それから娘と妻のことを思い出した。彼女達には申し訳ないと思った。なぜならこういった場合、すまないと感じなければならないはずだからだ。そう思いはしたが、それに伴う感情と言うものは、もうその時の私には存在しなかった。それは生きている人間の義務でしかなかった。しかし良く考えてみれば、私は生きている間、本当の意味でそう感じたことがあっただろうか?私は生きてさえいたのだろうか?

 

これからどうなっていくのだろうと言う不安が頭をよぎった。死んでいく自分を外から眺めている自分にはまだ少し意識があった。トンネルを抜けてすぐ雪景色に出会った時のように、目の前の暗闇が真っ白に染まると、息苦しくなり、何も考えられなくなった。そしてその息苦しさも去っていった。何もかも去っていった。それは何か神秘的でとてつもなく広い平原のようだった。そこには開放があり、嘆きも叫びも苦痛も孤独もはや存在しなかった。私は完全に死んでいこうとしていた。今まで死んでいった全ての人間と同じように、そしてこれから死んでいくであろう全ての人間と同じように。

 

 

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